昭和四十九年三月三十一日 後藤和子一年祭の御挨拶
「天地悠久」と言われる。天地悠久のそれに比較したら、私共の一生というものは、もうそれこそ束の間のもの。それは百まで生きても、生まれてすぐ亡くなっても、大して変わりのない程しのもの。天地の親神様の「天地の悠久である」と言うことからいうたら、もうそれはね、パッと瞬きをするようなものだと。そりゃ百年も生きたという人でも、生まれてすぐ亡くなったと言うても、変わりはないということ。その変わりのない程しのことですけれども、人間はやはり、「長生きをした」とか、「早死にだった」とか言うけれどもね、神様の目からご覧になるとそういうことではない。それを例えば、言うなら生まれて間もない、言うなら赤ちゃんの霊様のお祭でしたけれども、本当にあのう、言うなら、こうした立派な、子供だからこのくらいでよかよかといったようなものではない。心を込めてのお祭が出来たということが今日は大変有難かったですね。まあこれからまた三年、五年、十年と式年を追うたんびんに、このお祭りがこうして仕えられるおかげを頂くことでしょうが、本当にありがたいことだと。
先程、霊様のお祭始まったと同時に、今日は少年少女会の方達が一杯ここへ入って来ましたね。あれなんかはやっぱり神様の御演出ですよね。本当にあのう言うなら子供は子供なりにね、赤ちゃんが子供なんかが入ってくると大変喜ぶでしょう。そういう意味の働きを見せて下さったんだと思うですね。
私達が、信心をさして頂く。この世に生を受けたということは、この世には魂をいよいよ清まりに来たのだということなんです。そういう意味で、例えば私共が信心をさして頂いて、おかげも受けなければならんけれども、第一番に、「本心の玉を磨くもの」とか、「日々の改まりが第一」というところに焦点を置いての、痛い痒い、様々難儀な問題を御取次頂いておかげを頂くんですけれども、言うならば、生まれたままの赤ちゃんのような心の状態にならせて頂くことを、私共は稽古しとるわけです。もうそれこそ、世の中の悪という悪というようなものにね、染まらずにね、おかげを頂いておる今日の霊なんかというのは、そういう霊の心の状態になることを、私共大人は一生懸命精進する。それを「純」とか、「真」とかとこう言うのです。なら、そういう純な心、真の心を以て、なら、私共がこの世に生を受けて何を為すかというと、神様の少しでもお喜び頂けるお役に立つことのために、なんです。ですから、私共が汚れ果てたまま、我情我欲のままで、「神様のお役に使うて下さい」と言うてもね、これは、神様御用に使うて下さるはずがない。
もう信心さして頂いておると、先日、敬親会の時に、あるお祖母さんが、発表してましたが、何か大変腹の立つことがあった。それでもまあ、神様の前へ座ってから、一生懸命「金光様、金光様」とお願いしよったら、ほんに腹の立つということもこれ生きとる印たいと思って、死んどるなら腹も立んとじゃけん。こりゃ生きとる印たいと思うたらありがとうなってきた。ほでから、ありがたい心で今度はその、「嫁との問題でしたけども、嫁のこと祈れれるようになったら、御祈念が済んだ時にはもう、嫁さんの方がご機嫌とるような態度をとった」と言うて喜んでおりましたがね。
だからね、そういう信心というものは、心の中に思いも掛けない腹の立ったことが却って有難い。生きておる印を判ったという、その喜びでね、一家だけのことではない、言うならば、今ここで言われておる「合楽教会大発展を祈る」とか、「世界に和賀心時代を創る」とかというような、神様に喜んで頂くような祈りを、この、送られるということ。これがお役に立つこと。けれどもなら、腹の立ったまま祈ったって願ったって、神様に通うはずはない。けれども腹が立つということそのことも、生きておる印だと喜びが生まれます。その喜びの心で、なら、小さい判で祈るのではなくて、神様喜んで下さるようなことを祈る。「合楽教会大発展を願う」ということは、教会だけのことではない。本当に世界にたくさんの人が助かって行くことのための、教会なのですから、だから私共の信心によって、ふっと自分の心の中に、純真なものが生まれてくる。それが喜びとなってくる。その喜びの心で、少しはましな願いが出来るようにならなきゃならんというのが信心。だから一生私共はこの願いに終始するわけなんです。
ただ、今日のような霊辺りのように、もう本当に世の悪とか、言うなら我情とか、我欲とかというもののないままにね、それこそ純真そのままで、お国替えのおかげを頂いた。ただその、お役には立てなかったようにあるわけです。長い生のおかげ頂かなかった。ところが実際はね、本当に私は今日は有難いと思うことは、金光様の御信心を頂いておるということは何ていう素晴らしいことだろうと思う。金光大神の御取次によって、例えば赤ちゃんを赤ちゃんなりにね、今日はお役に立たせ、例えば私共がこの世でお役に立つことを願うようにですね、神様がちゃんとお役に使うておって下さるということです、赤ちゃんなりに。私今こちらへ出る時に、食堂でお茶頂きよった。そしたら、お宅から来とんのかなんかしらんけど、小さいお吸い物に浮かす野菜がきてますね、胚のような、あれなんて言うでしょう。あれを頂くんですよ。言うならば、あのう赤ちゃんが、一つの野菜というものがね、人間の実際の姿というならね、大根の人もありゃ、牛蒡の人もありゃ、人参の人もありましょうばい。なら赤ちゃんはね、あの針のような小さいか弱い細々としとるけれどもね、あの野菜に見立てられてね、吸い物にどうでも浮かしに使わなければ、お役に使われるということ。そういう御用に使われとるです。はあ神様のね、こりゃ金光大神のお徳だと私は思うです。使われとるからにはですね。神様がおかげを下さらんはずはない、お守り下さらんはずはないのです。
霊様の前でね、本当に今日の霊様が助かっておる様子のことを、神様にお礼を申させて頂きよったら、小さい蓑虫がね、ちょこっと首を出してね、赤ちゃんの顔なんですよ。ちょっと出して、ちょっと引っ込んだり出たりしよるとこを頂いたんです。これはどういうことかと言うとね、ならこの世にも、雨もありゃ嵐もあるようにね、あの世にもやはり必ずしもお天気の日ばかりじゃないということ。様々な雨の日もありゃ嵐もあるのだけれども、雨でも嵐の時でも一つも不自由は致しておりませんということだと思う。ちょうど蓑笠、あの蓑のようなもの着けてましょ、降っても、吹いても、中にこうやって、そういうお守り頂いとるんですよということを私は知らせたと思うですね。次には、そういう霊の働きというものは、もう赤ちゃんであろうが、年をとったものであろうが、お役に立たせてもらっておるというその働きは、全部、なら肉親のね、遺族とか兄弟とか親とかというようなふうな働きになってくる。
今日はあそこに鰤のお供えが、こう絞ってお供えしてありますね、二台ある。あれをプスッと切って、ピンとこうしたとこを頂いた。ということは鰤のお知らせは、あれはブリブリとしたおかげといったような意味の時にお知らせ頂くんです。そのブリブリとしたおかげがね、縛られてないんだと。限りがなく頂けるんだということを示されたんだと思うんですよ。
だから私共が、本当に赤ちゃんが早死にであって、悲しかって、そらもう生身を持ってるとそうですけれどね、赤ちゃんは赤ちゃんなりにお役に立たしてもらう。お役に立たしてもろうて、しかも天地の親神様のお守りをね、金光大神の御取次によって、御守護を受けておるんだと。そしてお役に立たして頂いておるんだと。そして楽しい時には、言うならあの少年少女会達と、子供たちが今日は明日の勧学祭の前夜祭、同時に入る者、または少年少女会を卒業して出る者の歓送の夕べを前夜祭風に今日は、もう今日は楽しゅうて楽しゅうてこたえんという雰囲気なんだ、少年少女会が。その「そういう雰囲気があの世での私の姿だ」と私は霊が語りかけてくれたように思うんですよ。
本当に一つおかげを頂いて霊になるというようにね、いよいよその純真な心をいよいよ真を真として表して行けれる。しかもそれがね、ならそういう心で、なら「少しは神様のお役に立つような働きをさして下さい」という祈りが願いをいよいよ持たなければならんことが判ります。
どうぞ。